小説『ソフテ!!』

 ★二人の少女が出会い、そして青春が加速する!
   14  二人のコート (最終回)
進藤はサーブのポジションに入ると、数回ボールを地面について、キッと視線を香織に向けてきた。香織も負けじと睨み返す。数秒間、睨み合った後、進藤がふっと視線を切って、ボールを大きく放り投げた。そのボールの下で、進藤は弓を引くように、身体をギュっと絞り込んで行く。と次の瞬間、スマッシュのようなボールがコートに突き刺さってきた。回り込む余裕などない。瞬時に判断した香織は、バックハンドでボールに合わせた。しかし、合わせただけのボールは、力無く相手コートにフラフラと上がって行く。
(やばい!)
これでは後衛勝負どころか、前衛にボールを叩き込まれてしまう。香織が悔しさに唇を噛み締めた瞬間、思いもかけないことが起こった。相手の前衛がスッと身体を沈め、ボールを見送ったのである。あきらかにスマッシュチャンスのボールを。なぜ?答えは一つだけだった。相手のペアにとって試合の主導権は、後衛の進藤に預けられているのだ。進藤は一人だけでこの試合を戦うつもりなのだ。果たして、コートに落ちたボールの先には、進藤が大きくバックスイングして待っていた。図らずも香織の思惑どおり後衛同士の対決になった。だったらこのストローク勝負、負けるわけにはいかない。
進藤はクロスをおもいッきり叩きこんできた。ダッシュでボールを追いかけ、進藤の足下に向かって打ち返す。再び、ギリギリのクロスのラリーが始まった。4回、5回と二人の打ち合いは続く。しかし、このままのはずがない。進藤はきっと何かしかけてくる。左サイドは、ガッチリと幸子が固めているから、先程のアタックを難なく幸子に返されたことを考えれば、まず左ストレートは考えにくい。だとしたら、どう攻めてくるのか。ならば、こっちから先手を打つか。と、そんな考えが香織の脳裏をよぎった時、進藤が動いた。香織の強打をすくい上げるようにボールを打ち上げた。ロブだ。そのボールは緩やかな放物線を描いて幸子の頭の上を超えると、測ったように左コーナーにトーンと落ちた。香織は右サイドから左サイドへ駆け出す。
(大丈夫!今の私なら。)
香織は大きくバウンドしたボールに追いつき、さらに回り込んだ。急ブレーキをかけた香織の足が、砂埃を舞いあげる。香織は上半身を大きくねじり込むとそのパワーのすべてをボールに叩きこんだ。
フォアハンドから逆クロスに繰り出されたボールは相手ペアの間隙をすり抜け、コートのサイドラインの内側にはじけ、跳び上がった。ギャラリーが再びわきあがる。
「ゲーム! ゲームカウント0ー2。」
審判のコールに香織と幸子はどちらからともなく走りより、ハイタッチを交わした。
「やったね。千葉さん。」
幸子の言葉に、息を切らしながら香織は笑顔でうなずいた。
「うん。」
今の1ポイントはただの1ポイントではない。これまでの練習の集大成とも言える一撃を、香織は今、決めたのだ。夏の大会の香織のままだったなら今のショットは打てなかった。バックハンドでロブを打ち返すのが精一杯だったはずだ。藤原の指示で、両手足に重りを付け、熱いアスファルトの上を走り抜いて身に付けたフォアハンドの逆クロスだったのだ。今、それが形となって、1ポイントを奪い取った。汗を拭いながらも香織の頬に自然と笑みがこぼれる。ふっと相手コートに目を向けると、進藤の視線とぶつかった。その目には、先ほどまで感じられなかった、敵意のようなものがにじんでいた。
(本気になった?)
進藤は自分たちのペアを同等の敵として認めたのか?いや、同等なんかじゃない。
(あの人は1人で、私たちは2人で戦っているんだから。)
だから、絶対負けるはずがない。香織は心の中でそうつぶやいた。
「チェンジサービス!」
主審の声に香織と幸子は再び手を合わせると、それぞれのポジションに歩を進めた。第3ゲームがはじまる。そしてこれからが本当の勝負だと言うことを、香織も幸子も、そしてベンチで組んだ足で貧乏揺すりを繰り返している藤原も知っていた。
主審のコールで、第3ゲームが始まった。香織たちのサービスゲーム。このゲームを取れば、進藤たちに焦りも生まれるはずだ。流れは一気にこちらにやってくる。
香織がサーブのポジションに入ると、ネットの向こうから「さあ、来い!」という声が飛んできた。進藤だ。これまでの2ゲームとはあきらかに違うその表情には、強い闘志が感じられた。しかし、逆転など、許すわけにはいかない。県大会行きの切符は必ず、手に入れて見せる。
「一本集中!」
そう叫ぶと、香織は左手に乗せたボールを頭上に放り投げる。
「はい!」
伸び上がってトップで捉えたボールは勢いよく打ち出されたが、次の瞬間ネットに吸い込まれ、てんてんとコートに転がった。
「ネット!」
これまで調子のよかったファーストサーブをミスしてしまった。力み過ぎているのが自分でも良く分かった。
「香織!」ベンチから藤原が短く呼ぶ声が聞こえた。振り返ると藤原が肩を数回、上下させて見せた。力を抜け!という指示だ。香織は小さくうなずくと深呼吸を2回繰り返した。
(大丈夫。落ち着け。次は、入れる。)
香織はアンダーハンドからの構えに修正する。「はい!」の掛け声とともに、ドライブサーブを打ち出す。サーブはネット、すれすれを頂点とする弧をを描き、コートの中央に入った。そのボールを進藤がやはり、ドライブショットで打ち返してきた。右サイドコーナー、ギリギリを狙った、コントロールショットだ。香織は走りながらテイクバックをとると、このボールをフラットにたたきおろした。コート中央のベースラインを目掛けてボールは真っ直ぐ飛んで行く。
「アウト! 0ー1」
ボール1個分、外にはずれてしまった。ネットについていた幸子が振り返って、香織のもとに小走りでやって来て心配気に声を掛けてきた。
「千葉さん?」
「ごめんなさい。私、慌てているね。急ぎすぎた。」
幸子が穏やかな笑みを浮かべて、コクリとうなずく。
「もっとじっくり行くから、もう大丈夫。」
その言葉に幸子はもう一度うなずくと、ネットに戻っていった。香織は額から流れ落ちる汗を拭いながら、もう一度深呼吸を繰り返した。急ぐ必要はない。2ゲーム先行しているのはこちらなのだ。次のレシーバーは、田中だ。サービスエースがとれる場面だ。ここでポイントをキープしておかなければならない。ファーストサーブは確実に決める。
「はい!」
オーバーハンドから打ち下ろしたサーブは、サービスエリアの中央に入った。しかし、慎重になりすぎたためかボールにスピードがのりきらなかった。思いもかけず、田中のレシーブが勢いよく帰ってきた。慌てて左サイドに走る。しかし、判断が遅かったため、回り込んでフォアで打ち返す余裕はなかった。仕方なくバックハンドでロブを打ち上げる。ボールはベースラインの手前、中央に大きくバウンドする。そこにスッと進藤が現れ大きくバックスイングを取るのが見えた。
(まずい、右サイドががら空きだ。)
先ほどの打ち合わせで、前衛の幸子は左サイドを固めている。今、幸子も香織も左サイドで重なった状態だった。フォーメーション練習が十分出来なかったつけが出てしまった。その隙を進藤が見逃すはずがなかった。
「パーン」
打ち込まれたボールは無人の右サイドを捉えた。
「0ー2」
香織は思わず、座り込んでしまった。
「ドンマイ。」
幸子の声に香織は顔を上げた。
「ごめんなさい。私、田中さんをなめてた。」だから、サーブレシーブへの対応が遅くなったのだ。
幸子は小さく首を左右に振りながら言った。
「違うわ。今のは私の責任。千葉さんが、左サイドに来たんだから、わたしは右サイドのカバーに入らなくちゃいけなかった。」
「・・・・・」
幸子がすっと香織に手を差し伸べると、香織の腕をつかんでそのまま引き上げてしまった。身体の細さに似合わず力が強い。
「まだまだこれからでしょう。一本集中、で行こう。」
「うん。」
2人でパチンと手を合わせると、それぞれのポジションに入る。ベースラインの後ろでサービスの構えに入った幸子の横顔を見ながら、香織はいつの間にか、自分一人でポイントを取らなければ、と焦っていた事に気が付いた。これでは、ネットの向こうの進藤と同じではないか。この一ヶ月余り、幸子がどれほどの汗を流してきたか、一番知っているのは自分しかいない。それを信じられない自分を、香織は恥じた。
(私はもっと、白鳥さんを信じよう。2人で力を合わせて、県大会行きの切符を手にいれるんだ。)
香織は自分の頬っぺたを数回叩くと気合を入れ直し、試合に集中していった。
幸子は左手にボールを捧げ持つようにすると、右手を大きく下方に広げた。この時点で、幸子がドライビングサーブを打つのか、それともフラットサーブを打つのか香織でさえ判断出来ない。レシーバーの進藤はどちらが来ても対応できるように、中間距離で小刻みに身体を揺らしている。と、幸子の身体が緩やかに動き出した。幸子の選択は、フラットサーブだった。瞬時に、進藤が身体を前方に移動させ、サービスラインギリギリまで寄った。正確な判断だ。そうしなければ、バウンドの低い幸子のフラットサーブは打ち返せない。しかし、仮に打ち返せたとしても強打は出来ないはずだ。香織の予想どおり、進藤はすくい上げるように大きなロブを返して来た。幸子はネットに上がる。
(じっくり。大事につなげるんだ。)
香織は相手に傾きかけた試合の流れを引き戻すために、あえてクロスにボールを打ち込み、ストローク勝負に持ち込んだ。ラリーを続ける事で、本来の自分のテニスを取り戻す事ができると考えたのだ。ところが、相手の進藤はこれに応じなかった。ロブで幸子の頭の上を越す高いボールを打ち上げ、左サイドのコーナーに落として来た。
(そう来るなら!)
香織は全速力で左コーナー目指してコートを走り抜け、ボールがバウンドした時には回り込んでフォアハンドのバックスイングをとっていた。逆クロスを思いっきり繰り出す。よし、決まった!と思った瞬間、ボールの先に黒い影が現れた。進藤だ。しかも進藤は、フォアハンドでバックスイングを取っている。
(いつの間に、追いついていたの?)
いや、あるいは予測して待たれていたのか。ベースラインの中央に戻り掛けていた香織は慌ててブレーキをかけたが、間に合うはずがなかった。進藤が打ち出した逆クロスは必死に追いすがる幸子のラケットをすり抜けると、左コーナーの砂を舞い上げ、ビシッと決まった。
「0ー3」
審判のコールに香織はしばらく身動きが取れなかった。
(これが、天命が丘の力。)
自分が必死の思いで身につけたフォアハンドの逆クロスをいとも簡単に、しかも同じ技で跳ね返されてしまった。もし、進藤が香織の心理的なダメージも計算して逆クロスを打たせ、同じ逆クロスで返して決めたのならば、それはもっとも効果的な作戦だったと言えた。この失点を境に、香織は見る影もなく崩れていった。何でもないボールを打ち損じてネットに引っ掛ける事が目立つようになり、得意のフォアハンドのショットは威力が半減してしまい、もはや進藤とラリーする事も難しくなった。あっという間にゲーム差はちじまり、5ゲームを終えた時点でゲームカウントは3ー2となっていた。辛うじて1ゲームリード出来ていたのは、幸子の粘りと、相手の前衛のミスのお陰だったが、このままでは逆転されてしまうのは時間の問題だった。
5ゲームを終えて、ベンチに帰った香織と幸子はうなだれて藤原の前に立った。怒声が飛んで来る事を香織は覚悟していた。ところが予想に反して、藤原の口から漏れたのはつぶやくようなのんきな声だった。
「こんな時になんなんだが。」
藤原は組んだ足をブラブラさせながら、ボンヤリと言うように続けた。
「3年生が引退して香織一人きりになった時、俺が剣道部に転部しないかって言った事があったろ?」
香織は思いがけない言葉に、えっ?と顔を上げていた。
「俺はな、あの時、香織が喜んで剣道部に行っちまうんじゃないかと思っていたよ。」
本当にこんな時になんでこんな事を言ってんだろうと、香織は藤原を見つめたが、藤原はブラブラさせている足の爪先を見ながら、香織の視線などおかまいなしにブツブツ呟く。
「だったら嫌だなあって、密かに思っていた。そうしたら、お前いきなり、だ〜って涙流し始めたからビックリしちまった。」
そこで始めて藤原は香織の視線を捉えて、強い光を宿した目で言った。
「テニス、好きなんだろ?」
香織の目にはいつの間にか、あの日と同じように涙が溢れていた。黙って頷く。強くもう一度頷いた。
「だったら、少しでも長くあのコートで試合をして来い。あのレベルの試合は、県に行かなきゃ出来ないんだぞ。」
「はい!」
涙を拭いながら、精一杯の声で答えた。その返事に満足そうに藤原は頷いた。
するとおもむろに、それまで黙って二人のやりとりを聞いていた幸子が口を開いた。
「先生、これもういいですか?」
幸子はそう言うと、左手にはめていた空色のリストバンドを、引き剥がすように抜き取り、藤原の手のひらに渡した。藤原は怪訝そうな顔で幸子を見つめていたが、やがてこくんとうなずいた。
「そうだな。でも、無理すんなよ。」
そう言う藤原に、幸子は穏やかな微笑みを向けると、小さいが決然とした声で言った。
「ううん。ギリギリまでやって見る。」
そして、香織と幸子は気持ちを新たにして、第6ゲームのコートへと向かって行った。
 
 
コートに入ると香織と幸子は手を合わせた。
「私、絶対あきらめない。粘るから。」
香織はまだ涙で赤い目をこすりながら、それでも意思のこもった言葉を告げた。すると幸子から、意外な返答が返ってきた。
「次、取っちゃえば勝ちでしょう?このゲームで決めてしまいましょう。」
さわやかな口調でそう言う。そして、一言付け加えた。
「それから、次、進藤さんがロブを上げて来たら、私にまかせて欲しいの。いい?」
幸子の笑顔の中に厳しい眼差しがあるのを見て、香織は黙ってうなずいた。何も勝算がなくて幸子がこんな提案をするなんて思えない。何かある。そして、おそらくは藤原もこれから幸子がしようとする何かを知っているはずだ。今は、それにかけてみてもいい。香織は幸子ときつく手を結ぶと、
「ファイト!」
と雄たけびをあげ、それぞれのポジションに入った。
 
「ゲームカウント2ー3! 瀬川中、サービス!」
第6ゲームは進藤のサーブで始まった。悔しいが現時点で勢いは向こうにある。そして、その勢いで一気に逆転を狙っているはずだ。
(そんなことはさせない。このレシーブは確実に返す。)
香織は進藤の高速フラットサーブに備え、十分に下がって身体を左右に振った。センターを狙って来るか。それともコーナーか。進藤の身体が伸び上がり、ボールがパーンと乾いた音をたてた。
(コーナー!)
香織はあらかじめ小さくテイクバックしてあったラケットを合わせて振り切った。感触は悪くない。ボールはクロスにはじき出された。香織がベースラインの後ろへと走ると、すぐさま進藤のショットが右サイドに飛んで来た。強烈なフラットボールだ。
(強烈。でも先生のボールにくらべたら、こんなボール、怖くない!)
そう、怖くない!自分に言い聞かせるように口に出してつぶやきながら、瞬時に反応して打ち返す。今日、幾度目かのラリーの応酬が始まった。と、その時、香織の耳に野太い声が聞こえて来た。
「もっとだ!」
藤原の声だ。
「もっと引け!お前のショットはそんなもんじゃない!」
いつも藤原が乱打の時に言う言葉だ。これは本当の藤原の声か?それとも、いつもの声が、今、幻聴のように聞こえているのか?どちらでも構わない。同じことだ。香織は右腕を真っ直ぐに伸ばし、背中へと弓引く。腰を、背中を限界までねじり込み、そのエネルギーを小さなボールに叩きつけた。パーン!ボールは進藤のいるコーナーに向かって一直線に飛んで行った。そして進藤のラケットではじけ、フェンスにぶつかった。
「0ー1」
審判のコールを待って、ギャラリーの歓声がコートに広がった。
「よしっ!」
藤原がガッツポーズを取っている姿が目に入り、思わず香織の頬に笑みが広がる。
「ナイスショット!」
幸子の声掛けに笑顔で頷きながら香織は、ベースラインの後ろで構えた。
今度は幸子のレシーブだ。進藤がイライラしたように、ボールを地面に打ちつけている。今のラリーで押されたのが悔しかったのだろう。流れを引き戻すチャンスだ、と香織は思った。(もう1ポイント。次を取ればきっと流れはこっちに来る!)おそらくは幸子も同じことを考えている。
と、進藤がめいいっぱい力を込めたサーブが、唸りをあげて飛んで来た。
「フォールト!」
審判のコールがサーブミスを告げた。ボールはサービスエリアを大きくオーバーしていた。進藤に力みが見られる。ひと呼吸置いて進藤が打ち込んだセカンドサーブは、明らかに入れに来たサーブだった。威力はない。幸子はこれをドライブレシーブで、ベースラインの中央に打ち込むと、素早くネットに走った。そのボールを進藤はすかさず、香織の足元に打ち込んで来た。難しいボールだったが、香織はステップを切り替えて、ボールをライジングぎみにとらえて引っ張った。
(クロスの打ち合いに持ち込む!)
それが香織の狙いだった。しかし、進藤はこれに応じなかった。香織が返したボールを、腰を沈めてラケットですくい上げ、ポーンと高く打ち上げた。
「ロブだ!白鳥さん!」
香織がそう叫ぶより早く、幸子はその長い足を生かして、ネット際からあっという間にベースラインの近くまで下がり、急ブレーキをかけた。足元で砂埃が舞う。ボールは大きな放物線を描いて、ゆっくりと落ちて来ている。次の瞬間、幸子は2、3歩助走し両腕を振り上げると、前方に踊り出すように跳び上がった。跳躍!その高さに香織は息を飲んだ。幸子は空中で身体を弓なりに反り返らせ、一瞬、ほんのつかの間、止まったかに見えた。コートの、いや会場中の時間が止まった。そして、再び時間が動き出した時には、ボールはコートに叩きつけられ、フェンスにぶつかって跳ね返っていた。
「0ー2!」
審判のコールが会場の喧騒を呼び戻した。ウォー!拍手と驚きの声が沸き上がる。
「すごい!」「ロブを叩き落としたよ」「ボール、速すぎて見えなかった」
香織もまた驚きの中にいた。何かある。そう思っていた。だけど、幸子のショットは香織の想像をはるかに超えていた。あれは、そう、まるでバレーボールのバックアタックだ。そして何より香織が驚いたのは、あのショットを幸子は左腕で叩き出した事だった。今まで、幸子は一度も左手でラケットを持った事などないはずだ。少なくても香織の前では。香織は息を切らして汗を拭っている幸子のもとに駆け寄ると、ナイスショット、と言うよりも先に
「白鳥さん、左ききだったの?」
思わずそう尋ねていた。
幸子はその問いに答える代わりに、笑顔で言った。
「一本集中で行きましょう。チャンスボールが上がれば私が決める。」
そして右手を伸ばして香織の右手をつかみ取ると、真っ直ぐな思いを込めた声で続けた。
「だから、千葉さんのショットで、最高のチャンスボールを上げて。」
時間にすればほんの一瞬、二人は見つめあった。幸子がつかんだ右手を、香織は強く握り返すと、決然とした声で言った。
「まかせて。」
 
「0ー2!」
審判のコールを合図に、「一本集中!」の声がコートの両側から響き渡る。サーバーは進藤にかわって田中だ。レシーバーの香織はサービスラインに近付き、深く腰を沈めてボールを待った。
「はい!」
打ち込まれて来たボールは予想どおり、入れに来たイージーなオーバーハンドサーブだった。香織はバウンドしたボールの頂点を叩きつけ、田中の足元に打ち込む。狙いどおりに打球は飛んで行き、田中は手を出す事も出来ない。(やった!)と香織が思った瞬間、フェンスにぶつかるはずのボールの前に、またしても進藤が現れた。
(そんな!追いつけるはずがない!)
こちらの狙いがことごとく読まている。進藤は難なくボールを打ち返すとあっという間にベースラインの中央に戻って行く。コート上に落ちたボールは全て返す。進藤の体全体からそんなオーラが発せられているようだ。
(負けるもんか!)
守備範囲の広さなら、決して引けは取らない。夏の間、重りをつけて学校の周りを走り、藤原には「振り回し」や「乱打」で散々走り回されたのだ。どこまででも喰らい付いてやる。再びラリーの応酬が始まった。もっと強く。もっと速く!心の中で叫びながら打ち込む。しかし、進藤のショットも、香織のボールに応じてどんどんスピードや球質が速く重くなって来る。あくまでもフラットで叩き返して来るそのボールには進藤の意地が感じられるようだ。その時だった。再び、藤原の声が耳にこだました。
「左腕だ。左腕の引きだ!」
(そうか!)
香織は進藤の打ってくるボールの球筋を読むと、足を止め、右腕をいっぱいに背中に引いた。そして、ラケットを持たない左腕も一緒に巻き込んで行く。ボールを懐に呼び込むと、一気に左腕を引いて、身体を回転させ、ラケットの頭をボールに叩き込んだ。
「いっけ〜!」
その直後、香織の中で時間がゆっくり流れはじめた。ボールは一本の白い筋になって、進藤のもとに飛んで行く。進藤はコンパクトなバックスイングでこれにラケットを合わせた。絶妙なタイミング。しかし、香織の放ったボールは進藤のラケットの中でもうひと伸びするかのように、グイッと動いた。結果、進藤はラケットを弾かれ、振り切る事が出来なかった。ボールはフラフラとコートに上がって行き、ネットを大きく超えた。ネットから離れてボールを待ち構えていた幸子が、一歩二歩と助走をつけると、両腕を振り上げて跳び上がった。その姿は、白鳥が飛び立つようだった。そして大きく振り上げた左腕をめいいっぱい伸ばしたかと思うとそのまま振り下ろした。その刹那、コートに稲妻が落ちたのを香織は見た。すべてがスローモーションフィルムのように流れる中、その稲妻だけは軌跡も残す事なくコートに落ちたのだった。
幸子のこの一本のスマッシュが、ゲームを決定づけた。進藤は果敢に、香織とのラリーに挑んで来たが、一人きりでコートを走り回るのには限界があった。最後には、幸子にチャンスボールを与え、3つめの雷がコートに落ちてゲームは終了したのだった。
 
「ゲーム ゲームセット!ゲームカウント4ー2。徳倉中。千葉、白鳥。」
審判から勝ち名乗りを受け、香織はその日一番の笑顔で審判のもとに走った。ところが、隣にいるはずの幸子がいない。振り返ると、幸子はコートの真ん中で左肩を抑えて倒れていた。
「幸子!」「白鳥さん!」
藤原の怒鳴り声と香織の叫び声が重なった。藤原が幸子に駆け寄る姿を、夢の中の出来事のように見ながら、香織は呆然と立ち尽くしていた。
 
 
季節はずれの大家海岸の海は、凪いでいた。香織と幸子の二人は、防波堤の上に座り静かな海を眺めている。幸子は右腕を装具で固定していた。その様子は痛々しかったが、数時間前、コートの土の上に倒れていた時の事を思えばなんと言う事はない。
「ごめんなさい。私がこんな事にならなければ、優勝出来たかもしれないのに。」
幸子が細い声で言うと、とんでもないと言ったふうに香織はかぶりをふった。
「ううん!私がもっとしっかりしていれば、白鳥さんに左腕を使わせる事だってなかったわ。怪我をしているのに、私のために、無理をさせてしまった。」
幸子は以前の学校でバレーボールをやっていた時に、左肩をこわして治療していたのだった。空色のリストバンドは、幸子が左腕を使う事のないように、自ら意識させるため、藤原がつけるように指示していたものだった。そのリストバンドを、幸子は自分の意思で取り外したのだった。
「千葉さんのためじゃない。私が、私のために自分で決めて使ったんだもの。」
「自分のため?」
「そう、私たちのペアが、県大会に行くため。」
そして、幸子は遠く海を見やった。その美しい横顔をしばらく見つめた後、香織も幸子の視線を追った。
「行けるんだよね。私たち、県大会に。」
「そう。それまでに、この左肩は絶対直して見せるから。」
「うん。」
香織は静かにうなずいた。
いつの間にか二人の手は固く結ばれていた。秋の風が海の上を走り抜けて行く。熱かった一日が終わろうとしている。
「おーい。」
藤原が遠くで呼ぶ声が聞こえた。
「いい加減、帰るぞ。」
病院からの帰り道、海を見に行きたいとねだったのは幸子だった。二人は見つめあってくすくすと笑うと、
「はぁ〜い!」
と返事をして立ち上がった。二人の手は結ばれたままだった。
 
更新日時:
2017/04/03

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Last updated:2017/4/4